市民ZOOネットワーク エンリッチメント大賞2017表彰式・受賞者講演会

 

2017年12月2日、東京大学弥生講堂でエンリッチメント大賞2017表彰式・受賞者講演会を開催しました。弥生講堂での開催も8回目、今年も美しいイチョウ並木が迎えてくれ、大盛況のうちに幕を閉じることができました。

 

エンリッチメント大賞2017表彰式・受賞者講演会
2017年12月2日(土)
東京大学 弥生講堂 一条ホール

以下、本田公夫氏(Wildlife Conservation Society展示グラフィックアーツ部門 スタジオマネージャー・エンリッチメント大賞2017審査委員)による基調講演の内容を、本田氏自らご投稿いただきました。

 

「エンリッチメント大賞2017 基調講演」

エンリッチメント大賞2017基調講演

本年よりエンリッチメント大賞の審査委員の依頼を受け、また、基調講演もお願いされました。私の仕事は、動物園・水族館の展示や施設の主に来園者に関わる部分のデザイン・施工・メンテナンスで、動物の飼育管理の専門家ではありません。一方、エンリッチメントは動物たちの生活を豊かにするための飼育管理手法です。にもかかわらず、エンリッチメントと展示についての執筆を依頼されたことが一度ならずあり、疑問を抱えながら原稿を書きました。日本では、エンリッチメント大賞がはじまった頃には、エンリッチメントを来園者への魅力向上の手法というように誤解した人が特にマスコミの中に多かったのではないかと思います。

 

このため、市民ZOOネットワークのみなさんにエンリッチメント大賞の審査委員になってほしいと言われた時に、まず最初に、私は飼育管理の専門家ではないしエンリッチメントに詳しいわけでもないのに本当にいいのですか、という質問をしました。そして、基調講演ではあえて「エンリッチメントは誰のため?動物福祉・倫理・動物園」というタイトルで、私なりにエンリッチメントをどのようにとらえているかをお話ししました。

 

動物園や水族館の動物たちの生活を豊かにすることは、その動物本来の生活に近づけることが基本なので、結果として来園者にとってもより生き生きとした動物の姿を見ることができることになります。これが主客転倒して理解されたのが、以前の誤解の原因だと思います。ブロンクス動物園では、トラの展示を新たに作った際に、トラのために動物園でしていることと原生息地でしていることを二つのテーマとしました。動物園でのケアとしてエンリッチメントの手法が体験的に理解できるようにしただけでなく、来園者の目の前でのハズバンドリートレーニングのデモンストレーションができるように施設を作りました。これは、エンリッチメントが動物にとっても来園者にとってもプラスとなっている好例の一つです。

 

一方、エンリッチメントのツールとして色とりどりのプラスチックの製品やタオル、衣類などの繊維製品が展示にばらまかれていたりすると、一度も片付けたことがないだらしない部屋のように見えてしまいます。このような手法は個体の福祉にはプラスでも、動物へのポジティヴなイメージを醸成すべき動物園の本来の役割にはマイナスになってしまうと思います。また、生息環境を再現しようという意図で作られた展示にダンボール箱やプラスチックのボールなどを置くことは、展示意図をぶち壊しにしてしまいます。このように、エンリッチメントを効果的に実施するのは必ずしも簡単なことではないかもしれません。

 

また、エンリッチメントの定義として私の中でまだ十分解決がついていないのが、施設のデザインという与条件と、その与条件の不足を補う手法という点です。私がエンリッチメントと展示についての執筆依頼に違和感を感じた理由の一つには、施設の構造はエンリッチメントの必要性を規定する与条件だと考えていたということがあります。ですから、いしかわ動物園のトキ里山館について他の候補と同列で考えることに躊躇しました。でも、この話題に詳しいオーストリアのデザイナーやWAZAの福祉担当の人に聞くと、施設設計はとても重要だと言います。確かに基礎的な要件を満たさない施設では話になりませんから、結論は両方とも重要だということのようです。さらにこの点で、来園者への効果とも絡んでくるのが非公開部分の扱いです。普通、開園時間は1日の半分以下ですから、個体の福祉を考えたら本当は寝室などの非公開部分の方に力を入れるべきなはずですが、実際はどうでしょうか。

 

また、福山市立動物園のボルネオゾウのふくちゃんのエンリッチメントの評価については、結核に感染しているということに関連して評価を下げる意見もありましたが、私は、それはそれとして、疾病を持っているからこそ必要になるエンリッチメントもあるだろうと考えました。ゾウに関しては、群飼育と繁殖というさらに大きな福祉の課題があります。この点で、井の頭のはな子について、現場ではできる限りのケアがされたということにはなんの疑いもありませんが、はな子が高齢になる前にできたことをできなかった設置者の責任についての反省の必要性が日本ではほとんど理解されていないのは問題で、群れ飼育はできるけれど繁殖のためのオスを飼育するスペースが確保できないからゾウの飼育をやめる(イギリス、トワイクロス動物園)というような欧米の社会状況とは著しく異なります。

 

ではこうした動物福祉への意識の違いはどのように生まれるのでしょうか。単純に考えると、文化の違い、ということになりますが、欧米の動物園人に聞くと、口を揃えて「動物福祉に文化の違いはない」と言います。もっと突っ込んで聞くと、主体は動物なのだから、動物のニーズは人間の文化とは関係ない、という話です。ゾウという動物をある扱い方をした時、それがゾウにとってどういう影響を及ぼすか、それはゾウの側の問題で、それが日本のことであろうがイギリスのことであろうがタイのことであろうが、ゾウの個体差を別にすれば基本的には同じはずだ、ということです。そこでもう少し考えると、「どういう扱いが許容できるか」という部分で地域差、文化差があるようだ、ということに思い至りました。ある扱いかたを良しとするか問題ありとするかは、半分はゾウへの影響の評価の問題ですが、同時にそれは人間の行為としての良し悪しの判断という側面を持つ、ということです。後者はより強く人間の側の価値判断と結びつくので地域差、文化差があります。おそらくこれは動物福祉というよりも倫理の問題なのだろうと思います。このように考えると、動物福祉の問題は、実は福祉と倫理というコインの両面から成り立っていると見ることができます。

 

このように考えると、コペンハーゲン動物園のキリンを産ませてからコドモを殺すという管理手法や死亡した動物たちを解剖して見せることについての騒動、あるいは太地のイルカ漁の問題などもわかりやすくなると私は思います。しかしながら、こうした話題は日本ではあまり深く議論されることがありません。社会的な関心が希薄なようです。半年ほど前に慶應義塾が出している「三田評論」という雑誌に文章を書きましたが、編集長に「動物福祉」という言葉は初めて聞いた、新鮮だ、と言われて驚きました。最近、NHKの「所さん!大変ですよ」という番組で、オリンピックの選手村で出す食事には福祉に配慮して育てられた動物を使うことという規定が入っているということを取り上げていました。東京オリンピック実施に当たっては避けて通れない一方で、短期間に解決できる問題ではないので騒ぎになって日本社会での理解が進むことを少し期待しているのですが、番組の中ではアニマルウエルフェアがブランドの一つのようなことになってしまっていたし、その後ニュースで報道される様子もありません。

 

こうして見ると、動物福祉の問題は、やはり文化の違いを無視しては解決できないことがわかります。実は私はこの数年、野生生物保全や動物福祉の問題に取り組むには、もっと人間のことをよく知る必要がある、と、機会があるごとに言っています。保全も福祉も人因性の問題だからです。地球上から人類が消えたらどちらの問題も同時に消えてなくなります。また、特に福祉の問題は人類が超都市化していくにつれて深刻化するとも言えます。狩猟・漁撈採集社会では人間生活を自然の方に合わせなければ生きていけないので動物福祉の議論が入り込む余地はごく限られていますが、都市社会の日常生活は自然のプロセスから遠く離れているので、全てが人間による管理可能なものとして議論されるようになります。

 

ですから、動物福祉を向上し、さらに様々に異なる感情と意見と向かい合うためには、ヒトにどう働きかけたらいいか、ヒトの心理・認知・行動の特性をよく理解することが絶対必要な条件であると思います。その点で、行動経済学やクライシスコミュニケーションのような分野は、それぞれ動物福祉の向上や「炎上」を防ぐのに有用だろうと考えています。

本田公夫

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