ぞうきんぞうのちょっとすてきなエピソード
気がつけばもう9月・・・ちょっと遅くなってしまいましたが、前回エントリーでちょっとふれたぞうきんぞうのエピソードをご紹介します。
8月20日はぞうきんぞうの作者の磯崎道佳さんにズーラシアまではるばるお越しいただきました。北海道から新潟経由で(実は栃木も経由して)横浜へ。いつもは屋内で展示をしているぞうきんぞうたちも、今日は特別に原っぱで屋外展示!ぞうきんぞうに寝転ぶと青空がみえる、ぜいたくなトークのはじまりはじまり。
と思いきや、ぞうきんぞうの上で跳ね回るコドモたちの相手をしつつ、そこに入り込んでいいのか躊躇するオトナたちを招き入れ、ぱらぱらと降り出した雨にぞうきんぞうたちを屋内休憩棟に緊急避難、などなどいろいろあって、実はトークをじっくり聞けませんでした。ということで、これまでに私があらゆる場面で磯崎さんから聞いたぞうきんぞうエピソードを、私なりの解釈でみなさんにご紹介します。
ぞうきんぞうは、磯崎さんの中で様々なイメージが交錯して、できあがっていきます。まずは、小さい頃に見たテレビの中のゾウ。磯崎さんは、野生のゾウがダイナミックに水浴びをした直後、赤い土を器用に全身にかけていき、砂浴びをしている姿にびっくりしたそうです。せっかく体をきれいにしたのに、なんでまた汚すんだろう?でも、「汚している」と思ったゾウの体は太陽の中で赤く輝き、むしろ優雅にみえるのでした。そのイメージは、磯崎さんの中にずっと残り続けます。そして、その後の磯崎さんの生き方にも重なっていったようです。「私たちは、様々なモノを吸収し、汚れ、時には異臭を放ちながら、無垢ではなくなっていきます。しかしそれは、そんなに悪いことだけではないと思っています。平原を移動する象のように、優雅に鼻を振りながら生きていくこともできるのではないでしょうか。」と磯崎さんは言います。
さらにこの、人生をちゃんと歩んでいくイメージが雑巾で表現され、「ぞうきんぞう」となるのです。「雑巾、それは最初は汚れていません。その汚れを知らない新品な雑巾が、使い続けるうちに様々なゴミを吸収し、くすみ、汚れ、そして最後にはボロボロになりゴミとして捨てられていきます。様々なモノをしみ込み、汚れ、ボロボロになる雑巾。それは、人の姿、成長する姿にとても近く感じることがあります。」と磯崎さんは続けます。
まさに、この「ぞうきんぞうたち」は、体の表面にぞうきんをまとい、一見、カラフルでなじみやすくありつつも、私たちとの交流の中で、不特定多数のあらゆる人々を受け入れ、どんどん汚れ、どんどんボロボロになっていきました。元気にダイビングしてくる男の子、赤ちゃんをあやすお母さん、探検ごっこをする女の子、熟睡するお父さん、、、8月の一ヶ月間で何千人ものお客さんがぞうきんぞうに触れていきました。
でも、どんなにボロボロになっても、私たちが新しいぞうきんに取り替えていけば、ぞうきんぞうたちをまたきれいにすることができます。これは、動物園で働く私の中では、すごく象徴的な意味を持ちます。動物たちを取り巻く環境も動物たちそのものにも、私たちの関わり方次第で、良くも悪くもするだけの影響力を私たち人間は持ってしまっています。雑巾だったら、付け替えればすむこと。でも、付け替えることさえも、その意識がないと大変です。なぜなら、このプロジェクトはボランティアで支えられているからです。
今回のズーラシアでのぞうきんぞうプロジェクトでは、はじめからここまでちゃんと考えて関わってもらったわけではありません。でも、継続的に関わってくれたボランティアさんは、たぶん、関わるごとにぞうきんぞうに愛着を覚え、心のどこかで気にしてくれていたと思います。「今週末はお天気よかったから、コドモたちの襲撃に遭っているだろうな、、、」なんてきっと時々思いながら、夏を過ごしてくれていたんだと思います。地球環境をきれいにしようと思ったら、こんなに簡単にはいかないのですが、でも、継続的に関わりたいと思える気持ちには通じるものがあるんだと思います。
そんなこんな、あれこれ思いながらも、私はこのプロジェクトに楽しく関わることができました。世界中のいろんな動物園をぞうきんぞうたちが旅していけるといいなぁなんて勝手に願っています。ズーラシアのぞうきんぞうたちは、もうすぐ横浜のアートスペースBankARTに戻っていきます。これからは、どんな旅が待っているんでしょうね。